数学と哲学と恋
私の恋は漸近線
:どこまでもどこまでも近づいていくけれど決して交わることはない
たとえば、幼馴染恋愛物。限りなく気持ちは近くて、遠くから見たら交わってるようにしか見えないというのに、拡大すれば離れている。
あの人と私の気持ちは違う。
あるいは、全ての人とのコミュニケーション。人はどこまで行っても同じ人間にはなれない。
私の恋は平行線
:つかず離れず永劫同じ距離を保ってどこまで行っても交わらない
パラレルワールドは交わることはできないから存在するのかもわからない。存在するとしたら、そっちの世界でもパラレルワールドのこと考えてる私がいるかもしれない。どっちが分岐した先なのかなんてわからない。自分が存在している空間しか確かなものはない
私の恋はねじれの位置
:存在する平面すら既にちがくって、交わるはずがない。お互いの存在すら知りえない。でも同じ空間の構成員ではある。
もしねじれの位置で片方が片方にありえない恋をしたとしたら(;気配や存在感によって知り得るか知りえないかギリギリのラインの相手を妄想したとしたら)どこまでいっても交わらない空間の中を歩く。彷徨ってるつもりでも決められた道(=直線)しか歩けない。
何故なら彼は直線Aだから
ねじれの位置であれば、ある程度まで近づくことは可能なんだよ、平行線と違って。でも交わらないのがねじれの位置だから…空間をまたぎ越えるほどの力を人間も直線も持ってない。
ああもし私が、自由に動ける点Aだったら…みたいな感じ